皇族の多くは基隆港(日本から最も近い港)から上陸、専用列車で台北へ向かうのが常であったそうで、盛大な歓迎式は、台北駅・総督府・総督官邸(現在の台北賓館)までの間、総督と役人が出迎えをしていたそうです。
皇族の公務は、総督府や官邸で台湾島のすべてを聞き、知ることだったそうです。では、皇族たちはどのようなルートで台北を訪問していたのでしょうか?
皇族の公務の中で最も重要な仕事は?それは圓山にあった「台湾神社」で、台湾の守護神であった北白川宮能久親王を参拝することだった。総督府は短い滞在時間で台湾統治の実績を出来るだけ多く見ていただこうと苦心してルートを考えたそうです。
たとえば、台湾神社参拝には同じ道を利用せず、往路は勅使街道(現在の中山北路)を経由して大稲埕へとした。その理由は、勅使街道は日本風の街道で、大稲埕は漢民族の街であり、細かな工夫がされていました。
大稲埕をただ通り過ぎるのではなく、第一公学校(現在の太平国民少学)で台湾の子供たちが授業を受けている様子を見ていたそうで、漢民族の子供たちが、日本語のテキストをすらすらと朗読し、日本の地理や歴史を勉強していたそうです。
台北師範学校でも授業が行われていましたが、1925年、ちょっとした事件が!!昭和天皇の弟「秩父宮雍仁親王」が、学生からメモがびっしり書かれている教科書を取り上げ「これは事前に用意していたものだ」と校長に叱責したことがあったそうです。
台北滞在中、皇族たちはどのような食事をとっていたのでしょうか?
日本料理・西洋料理・台湾料理だったそうで、台湾料理は大稲埕のレストランから仕出しで、料理はノコギリガサミ(蟹)・蒸し魚・八宝飯で、ほぼ毎回同じだったそうです。
1923年、台湾行哲の夜(現在の中華民国国慶節のイルミネーションより絢爛豪華だった)人々の歌声とたいまつが夜空を照らし、総督官邸のバルコニーに座り、群衆のパレードを静かに観賞していた皇太子裕仁親王は、手元にある旗を持ち上げ民衆に挨拶をしていたそうです。(製作・出版:中央研究院デジタル文化センター
台北歴史地図散歩より)
新型コロナウイルスが収束して台北に渡航できる日か、終息してからか?どうなるか全く予想がつかないですが、日本から渡航が可能となった時には、日本統治時代に日本の皇族の足跡を回ってこようと思います。
ルート
台湾神社(現:圓山付近)→ 勅使街道(現:中山北路)→ 太平公学校(太平国民少学)→ 台北駅 → 総督府博物館(現:台湾大学医学院前)→ 総督官邸(現:台北賓館)→ 総督府 → 台北第一師範学校(現:図書館付近)→ 歩兵第一連隊と山砲兵大隊(現:国家音楽ホール)→ 専売局工場(現:社団法人台北律師公会付近)→ 台北植物園
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